西国三十三所第九番札所として人々のお参りで賑わう。 弘仁4年(813)藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父 内麻呂(うちまろ)追善の為に建てた。基壇築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら版築したことが発掘調査で明らかにされた。また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記される。 不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されている。興福寺は藤原氏の氏寺であったが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めた。その不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日社との関係で特に藤原氏の信仰を集めた。 創建以来四度目の建物で、寛保元年(1741)に立柱された。江戸時代の建物といっても、その手法はきわめて古様で、再建には北円堂を参考にしたのであろう。 毎年10月17日に特別開扉。
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興福寺の歴史 天智天皇8年(669)に藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置する為に、夫人の鏡女王が京都山科の私邸に建てた「山階寺(やましなでら)」を始まりとする。その後飛鳥廐坂の地に移し「廐坂(うまやさか)寺」と称した。 都が平城京へ移されるに及んで、平城京左京三条七坊のこの地に移し「興福寺」と改号し、創建の年を和銅3年(710)とする。その後天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備された。奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。 特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになった。 平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになった。 鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任にあたった。 幕府による宗教政策が厳しかった江戸時代には21000石余の朱印が与えられた。 明治時代初めの神仏分離令・廃仏毀釈・社寺上地令などで興福寺は荒れたが、その後の努力で復興し、新しい興福寺の歴史を刻んでいる。
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